2021-05-21 第204回国会 衆議院 厚生労働委員会 第21号
○阿部委員 旧民主党におられた細川律夫元大臣も大変この件には熱心で、あのパロマのガスで亡くなっていった事件、あるいは、時津風部屋ですか、亡くなられたこと、当初は事故と思われたものが、実は解剖等々でいろいろな状況が分かってきたということで、非常に重要な公衆衛生のツールだと思っております。
○阿部委員 旧民主党におられた細川律夫元大臣も大変この件には熱心で、あのパロマのガスで亡くなっていった事件、あるいは、時津風部屋ですか、亡くなられたこと、当初は事故と思われたものが、実は解剖等々でいろいろな状況が分かってきたということで、非常に重要な公衆衛生のツールだと思っております。
これ、細川知事のときに、そういう価値のある建物が町中で芸術としてずっと、熊本城じゃないですけど、ずっと過去まで資産として残っていったら、公共施設をそういう形でやりたいんだと、無機質なものを造るよりか、市民、県民がそういう建物を見て文化に触れるとか芸術に触れるというような形がプラスのバリューになるんだということで進められていて、まだ続いているんだなと思いまして、ちょっと御披露して。
その後、今度は、政権交代しまして細川政権が発足した平成五年。平成五年は六月から七月にかけて各地で集中豪雨が多発し、それとともに夏は冷夏が襲い、ちょうど当時は約一千万トンぐらい米が必要だったんですけれども、一千万トンに対して七百四、五十万トンしか取れないような大変な凶作の時期を迎えました。
前回申し上げましたけれども、当時、野党案で犯罪被害者基本法というのを、細川律夫先生が筆頭の提出者で、私がその事務局長を務めていて、作ったものがありました。
一九九四年というのは、ずっと前の細川政権のときに批准した条約なものですからね。 国内法整備が十分できているかどうかというのを私も大変疑問を持っているところですので、この政権がどうということではないんですけれども、もう二十七年も各国から、日本は子どもの権利条約を守っていないという指摘をされ続けている国であるということは、やはりこれは司法外交の上でも、私は大変なマイナス点だろうなと。
そういうところに入らない総理というのは、細川政権以降、あなたと安倍総理だけなんですよ。 では、公邸を潰してくださいよ、あなたに必要ないと言うんだったら。国民の血税を出して、せっかく危機管理のために造っているわけですから。入らないとは何事ですか、本当に。即刻入っていただきたいと思います。
そして、この質問に当時の細川大臣が、約束しますと、必ず契約書を出しますと約束されているんですよ。この議事録発見しましたので、一応今日資料として持ってまいりました。 ということで、是非、今閣内にいらっしゃる方は是非実現してほしいなと思います。 以上です。
これは、もう小選挙区制導入のとき、細川内閣のときから私はずっと申し上げていることだけれども、賛同を得られない。よくわからない。 今、山尾議員がおっしゃったかと思いますが、私どもは、臨時国会というものは、衆参のいずれかの総議員の四分の一の要求があれば、二十日以内に召集の手続をとらねばならない。
私はこれも極めて不思議なことだと思っておりまして、従来、東京宣言とか、海部内閣から細川内閣、それからそれ以降も含めて、日ロの首脳間では、北方四島に領土問題が存在するということは確認されてきた。
そして、一九九三年、細川首相の時代の東京宣言は、四島の帰属問題を解決して平和条約を締結するというものでした。ただ、これは必ずしも四島の返還という意味ではなく、帰属先が一切述べられておりません。私は、これが日本の対ロ外交の基本方針だと思っております。
それで、死因究明については、かつて民主党の細川律夫先生などが大変な心血を注いで整備に取り組んでおられましたし、いらっしゃいませんけれども下村先生とか、超党派でいろいろと取り組んでおられて、私もかかわっておりました。 警察はどうしても、やはり事件性の有無というところに関心がありまして、要は、犯罪と関係するのかどうかというところが関心の的であります。
あの当時、思い出されるのは、最後は細川元総理と河野洋平当時自民党総裁とが万年筆を交換して合意文書を交わしましたね。あの場面、私は本当に感動的でございました。これが政治のあるべき姿だと今も思っているんです。 そういう流れの中で、去年、私は大変残念な事態が起こったと思います。昨年の通常国会の終わり際に、参議院の定数の六増というような信じられないような内容の法律が与党が押し切る形で通ってしまいました。
よって、議長は、 中央選挙管理会委員に宮里猛君、高部正男君、斎藤勁君、細川律夫君及び白浜一良君を、 また、同予備委員に元宿仁君、阿部信吾君、阿部和弘君、加賀谷弘平君及び藪仲義彦君を、 それぞれ指名いたします。 ─────・─────
少しおさらいをしながら質問させていただきますが、まず、お手元に資料をお配りをさせていただいておりますが、平成十二年に、当時の民事局長であった細川さんという方が、田中甲議員の質問に対して、こうはっきり答えちゃっているんですよね。
これは何回も会長にはお願いしているんですけれども、京都北部、いろいろ、明智光秀とか細川ガラシャ、細川幽斎、これに関連する、非常に、史跡、名勝がたくさんありますので、ぜひ地域を盛り上げるためにもロケーションを多くのところでやっていただきたいというお願いを何回かしているんですけれども、これについて改めて会長のお話を聞かせていただきたいと思います。
————————————— 一、中央選挙管理会委員及び同予備委員指名の件 委 員 宮里 猛君(自民推薦) 高部 正男君(自民推薦)(再任) 斎藤 勁君(立憲推薦) 細川 律夫君(国民推薦) 白浜 一良君(公明推薦) 予備委員 元宿 仁君(自民推薦)(再任) 阿部 信吾君(自民推薦) 阿部 和弘君(立憲推薦)
議長は、中央選挙管理会委員に 宮里 猛君 高部 正男君 斎藤 勁君 細川 律夫君 及び 白浜 一良君 を指名いたします。 また、同予備委員に 元宿 仁君 阿部 信吾君 阿部 和弘君 加賀谷弘平君 及び 藪仲 義彦君 を指名いたします。
そして、私は、細川連立政権、自社さ政権、民主党政権と、政権与党を三度経験してまいりました。それらの経験を生かして、再度新たな政権を実現することは私の使命であり、日本の民主主義の発展に資すると確信をしております。 私は、二回目の選挙戦のさなか、平成五年七月十二日、地元の奥尻島を中心とする北海道南西沖地震が発生し、死者、行方不明者二百二十六名という大災害を経験いたしました。
そして、その後の総選挙を経て、非自民連立政権への動きが加速化し、細川政権が誕生するのであります。 細川連立政権下、先生は新党さきがけの代表幹事として連立与党と官邸の間の仲裁役を担われました。当時の日本新党幹部をして、連立と官邸が何とかもっているのは園田氏によるところが大きいとも言わしめたものであります。
厚生労働省には、八年前の民主党政権下、細川厚生労働大臣時代の平成二十三年から、重大な不祥事が生じた場合に迅速に事案を検証し再発防止策の検討を行うことなどを目的として、厚生労働大臣伺い定めで、省内に本部長を厚生労働大臣、本部長代理及び副本部長は厚生労働副大臣及び厚生労働大臣政務官からそれぞれ一名を選任し監察本部が常設されています。